地下鉄の乗り換え地点でるブロア・ヤング駅は東京の高田馬場に似ている。
いろんな人が行き交う駅の近くにその大きな図書館はある。
カフェと隣接しているその図書館は、入るとコーヒーの香りが出迎えてくれる。
ラウンジには噴水と池、階数が多いので二台のエレベーターが用意されていて、この図書館がどれだけ広いのか思い知らされる。
そして
そこには、日本の図書館では比べ物にならないほどの
一生をかけても読みきれそうにない本達が各階に飾られている。
英語が読めるということは、そういう事だ。
こんばんわ、日本語を使って暮らしているのは日本人だけなんですよ。
「私は日本人だもの!」ことお馴染みMちゃんと、この立派な図書館を訪れたとき、彼女は図書館の棚に陳列られている本の多さにとても驚いていました。
「日本語で書かれた本と日本語に和訳されている本しか読めない自分にゾッとした」
と私に言いました。
確かに、日本語で得られる情報量はとても限られています。けれども、日本にいるとなかなか実感しにくいですよね。
情報量とお堅く言っても、難しい論文や難しい書物の事だけのことではありません。
料理、美容、ライフスタイル、インテリア、歴史、など様々な分野のことにも当てはまります。
英語ができないということはどんなに好きな分野のものがあっても和訳されていなければ、そこで情報が途絶えてしまうということです。
多くの情報は他国から発信されているんですよ。
ということは、私たちはその情報を一歩遅れて、読んだり聞いたりしているということです。
学生の頃の私には、英語の教科書を開いて、ただ英語を勉強するのはやめて、歴史や、ドラマ、映画、本、美容雑誌、コラムを読んだり聞いたり、時には書いたりしてみてほしかったです。
日常的に使わない言語を勉強するほど、退屈なものはありませんでしたから。